こんばんは!
工藤です。
寒波もやや落ち着きを見せ始め、釣られて僕の気持ちも”やや”落ち着いてきました。
今回はたまにご質問を受ける
「自分の故郷に戻ったのに何ゆえ同調に苦しんでいる?」
について僕自身で考えていることを書いてみます。
まあ確かにね、生まれ育った所に帰ったのに
”寒い”
だの
”雪”
だの言っていたら
おかしい!
って思われますよね。
面倒くさいので反論はしないでいましたが、
思う所ありまして、
ここで一度この件の誤解を解いておこうかと・・・
and 僕自身が次に進むためにも敢えて書き記しておかなければ、
そう思いました。
いきなり涌谷をくさしているわけではないので、ご了承ください。
涌谷は町も人も大好きですよ。
実は僕、
涌谷に住むのは初めてなんです
実家と工藤本人の所在地対比

ご覧のようにマックに就職して千葉に来るまで、僕は人生の大半を仙台市+県南(岩沼、大河原)で過ごしてきました。
実家はというと、父親の転勤に合わせてあちこちを転々とし、最終的にここ涌谷町に腰を落ち着けています。

つまり僕にとって涌谷町は縁はあるけれど、ぶっちゃけ未開の地です。
・土地勘なし
・知人なし、同級生なし
・コネクションなし
ほんと、脈一つ無く右も左もわからないところへ越してきてしまいました。
せめてね、知り合いや同級生でもいれば違ったのかもしれませんけれど、友人達は仙台から県南在住者がほとんどです。
また移住促進組織の仲介などで越してきていれば、仕事から生活がスタートすることになります。そこで育まれる人間関係から新しいステージでの基盤も築きやすいのだと思います。
僕はただ来ちゃったので、きっかけからの端緒を探すことから始めることになりました。
交通インフラや仕事場を求めてアクションを繰り出し続けたのにはこのような理由があったのです。
そして寒さ
仙台や県南より3〜5℃低い気温、真横に吹き荒れる爆風
未体験ゾーンの気象状況下で思ったのは、
こいつは東京の人間が厳冬期の東北の冬を越えようとしているに等しい
30年の時の流れは僕を完全に関東人に変えていたようです。
なのに東北人をきどって舐めていた結果この有様(泣)
冬将軍様!ごめんなさい。
こんな僕を許して下さい!
実家と言っても母親ですけれど、まったくもって不可解でした。
涌谷町は移住民を募って人口を増やす方向を探っているだけはあり、自治体活動も活発です。
多くの情報誌もあり、町内のイベントや工事、規制、他にも耳寄りな情報まで細かく発信してくれています。

・わくや広報 ・大崎広域

ローカル情報です。

・警察広報「こがね」

・みやぎ県政だより

・わくや議会だより
首都圏よりもはるかに情報が充実しています。
地域に不慣れな移住者も対象ですので、きめ細かい発信になるのはありがたいですよね。
自治会もラジオ体操、運動会、ボーリング大会などのレクリエーション情報をアクティブに発信してくれています。

ソフトボールの情報を知らなかったのは痛かった・・・
やりたかったなあ。
お隣の靖裕さん、知らなかったです。
ゴメンナサイ(泣)
これらの情報誌は毎月配布されます。
”うらしま太郎”にならないためにも、しっかりと目を通して参加できる企画には可能な限り参加し、涌谷の人たちへの露出を高めていかなければ・・・
そう考えた僕は母親に
「届いた情報誌、見たらその後で良いので必ず僕に回してください」
とお願いしていました。
しかし・・・
母が町の情報誌を僕に回してくれることはありませんでした。
家のゴミ置場に重ねてあるのを発見し
「次からは必ず僕に回してくださいね」
と言うこと2回、3回、4回・・・
そのうちゴミ置場に来る前にどこぞに始末するようになってしまいました。
なんででしょうね?
なぜそこまで頑なに町の情報に触れるのをブロックするのでしょうか?
あまり考えたくありませんが
「僕が涌谷町や近所と親しくなったり溶け込んだりしてほしくないから・・・?」
もうよしましょうね。
きつい・・・
残念ですけれど、どう前向きに考えてもポジティブな解は導き出せないでいます。
思い起こすと他にも色々とあった理解不可能かつ理不尽なことの理由がつながってくるのですが、それらはここで書くことではないし書くべきでもないのでやめておきます。
単に”そうなんだ”という事実があるだけ、
僕が鈍くて気付いていなかっただけです。
何度も「もしかしたら?」と頭をかすめても、自分の母親ですからね。
少し様子見してみようと思っているうちに夏が終わり、東北の秋は足早に過ぎ去り、冬も終盤の2月になってしまいました。
30年も離れている間、僕も多くの方々と触れ合う中で普通の家庭や親子関係というものの理想形ができあがり、そういった暖かい関係への幻想(思い違い)を抱いてしまったのかもしれません。
いい年して大甘ちゃんですわ。
けど巷には破滅的な親子関係ってのもあって、それはまた決して珍しいものでもないんですよね。
世の中には色々な人がいますし、人々が織りなす関係は様々ですから。
まさか自分がその渦中にいるとは夢にも思っていませんでしたが・・・
気付くのが遅くて、母親には悪かったなと思います。
そしてこれまで何度も相談に乗ってくれた叔母と叔父に感謝しています。
いつも前向きに考えるように導いていただきました。
ありがとうございました。

除雪してくれないのにはまいりましたし、ゴミ集積所の遠さにも正直言って辟易としています。
ですがそんなことはどうでも良くなるほど住民の皆様は良い方ばかりです。
ヤマトで宅配していると、どんどん顔見知りが増えてくるのですが
「忙しいですか?」
「毎日お疲れ様!」
「がんばって!」
いつも優しく暖かい言葉をかけていただき、それがまた仕事への励みになってもいました。
町に入り込む仕事を続けるうちにどんどん涌谷町が好きになっていきました。
多くの施設のみなさま、企業のみなさま、
すみません。
本当は町に根付いて仕事を続けたかったのですが・・・
ヤマトの件はまた別記事でまとめますね。
てなわけで涌谷町の実家での生活は、予想とは程遠く厳しい毎日となっていました。
そこへきて大寒波と大雪!

そしてジョグのエンジンブロー。

如何ともし難い状況に押し込められて発狂しそうになりながら雪道を徒歩で自分の食料を買い出しに歩く毎日・・・

けれどどうせ何も出来ないなら良い機会だと考え直し、幽閉期間中にいろいろと考えてみました。
今の生活をこの先も続けていくことへの絶望感。
そして続けていくとするなら全く見えなくなる明日、未来。
自分が自分で居続けられなくなっていく破滅感。
東京での厳しい生活から一旦ベースキャンプとしての実家へ戻り鋭気を養い
再びバトルフィールドへアタック!
とかカッコ良いことを言っていました。
帰ってきてすぐに違和感を覚える扱いを受けたり、今思うとその後も幾度となく気付くチャンスはあったのですが、
それでも実家から通える仕事に就くことに固執していたのは
単に自分の選択が失敗だったということを認めたくなかっただけ
なのだと思います。
人間関係を相場で例えて良いものかどうか心情的に?ですが、敢えて例えてみれば
損切り=ロスカットできずにズルズル保有し続ける。結果どんどん傷口(損失)を拡大してしまい、取り返しのつかない状況を招いてしまう
ことと一緒です。
間違いは間違いとして速攻でロスカットし、再び自分のルールで相場を張り直す、生き馬の目を抜くかのような相場の舞台ではどのような局面であっても忘れてはならない考え。
これが出来る人だけが生き残っていける。
そうだと思います。
ただこと人間関係では信頼とか優しさとか、そういったものも絡んでくるのでやはり例えとして適当ではないのかな。
だとしても!
生き残っていく、それが人生の答なのかもな、
僕は生き残っていかなければならない。
まだまだ書ききれていませんけれど、
重たくなりましたので
この話題これにてお仕舞にさせて頂きます。
いつも元気で!
いつも笑顔で!
いつも自信満々で!
いつも全力で!
そんな当たり前の工藤信一を失わないように!
明日は今日より輝いている!
絶対に・・・
今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました。
【脱東京】工藤はなぜ東京を離れることにしたか?:その5
【脱東京】工藤はなぜ東京を離れることにしたか?:その4
【脱東京】工藤はなぜ東京を離れることにしたか?:その3
【脱東京】埼玉から宮城移住の経過を書き留めます:3
【脱東京】工藤はなぜ東京を離れることにしたか?:その2
【脱東京】埼玉から宮城移住の経過を書き留めます:2
【脱東京】埼玉から宮城移住の経過を書き留めます:1
【脱東京】工藤はなぜ東京を離れることにしたか?:その1
【脱東京】宮城に移住します!
工藤です。
寒波もやや落ち着きを見せ始め、釣られて僕の気持ちも”やや”落ち着いてきました。
今回はたまにご質問を受ける
「自分の故郷に戻ったのに何ゆえ同調に苦しんでいる?」
について僕自身で考えていることを書いてみます。
まあ確かにね、生まれ育った所に帰ったのに
”寒い”
だの
”雪”
だの言っていたら
おかしい!
って思われますよね。
面倒くさいので反論はしないでいましたが、
思う所ありまして、
ここで一度この件の誤解を解いておこうかと・・・
and 僕自身が次に進むためにも敢えて書き記しておかなければ、
そう思いました。
涌谷は故郷ではない
いきなり涌谷をくさしているわけではないので、ご了承ください。
涌谷は町も人も大好きですよ。
実は僕、
涌谷に住むのは初めてなんです
実家と工藤本人の所在地対比

ご覧のようにマックに就職して千葉に来るまで、僕は人生の大半を仙台市+県南(岩沼、大河原)で過ごしてきました。
実家はというと、父親の転勤に合わせてあちこちを転々とし、最終的にここ涌谷町に腰を落ち着けています。

つまり僕にとって涌谷町は縁はあるけれど、ぶっちゃけ未開の地です。
・土地勘なし
・知人なし、同級生なし
・コネクションなし
ほんと、脈一つ無く右も左もわからないところへ越してきてしまいました。
せめてね、知り合いや同級生でもいれば違ったのかもしれませんけれど、友人達は仙台から県南在住者がほとんどです。
また移住促進組織の仲介などで越してきていれば、仕事から生活がスタートすることになります。そこで育まれる人間関係から新しいステージでの基盤も築きやすいのだと思います。
僕はただ来ちゃったので、きっかけからの端緒を探すことから始めることになりました。
交通インフラや仕事場を求めてアクションを繰り出し続けたのにはこのような理由があったのです。
そして寒さ
仙台や県南より3〜5℃低い気温、真横に吹き荒れる爆風
未体験ゾーンの気象状況下で思ったのは、
こいつは東京の人間が厳冬期の東北の冬を越えようとしているに等しい
30年の時の流れは僕を完全に関東人に変えていたようです。
なのに東北人をきどって舐めていた結果この有様(泣)
冬将軍様!ごめんなさい。
こんな僕を許して下さい!
実家の協力が得られなかった
実家と言っても母親ですけれど、まったくもって不可解でした。
涌谷町は移住民を募って人口を増やす方向を探っているだけはあり、自治体活動も活発です。
多くの情報誌もあり、町内のイベントや工事、規制、他にも耳寄りな情報まで細かく発信してくれています。

・わくや広報 ・大崎広域

ローカル情報です。

・警察広報「こがね」

・みやぎ県政だより

・わくや議会だより
首都圏よりもはるかに情報が充実しています。
地域に不慣れな移住者も対象ですので、きめ細かい発信になるのはありがたいですよね。
自治会もラジオ体操、運動会、ボーリング大会などのレクリエーション情報をアクティブに発信してくれています。

ソフトボールの情報を知らなかったのは痛かった・・・
やりたかったなあ。
お隣の靖裕さん、知らなかったです。
ゴメンナサイ(泣)
これらの情報誌は毎月配布されます。
”うらしま太郎”にならないためにも、しっかりと目を通して参加できる企画には可能な限り参加し、涌谷の人たちへの露出を高めていかなければ・・・
そう考えた僕は母親に
「届いた情報誌、見たらその後で良いので必ず僕に回してください」
とお願いしていました。
しかし・・・
母が町の情報誌を僕に回してくれることはありませんでした。
家のゴミ置場に重ねてあるのを発見し
「次からは必ず僕に回してくださいね」
と言うこと2回、3回、4回・・・
そのうちゴミ置場に来る前にどこぞに始末するようになってしまいました。
なんででしょうね?
なぜそこまで頑なに町の情報に触れるのをブロックするのでしょうか?
あまり考えたくありませんが
「僕が涌谷町や近所と親しくなったり溶け込んだりしてほしくないから・・・?」
もうよしましょうね。
きつい・・・
残念ですけれど、どう前向きに考えてもポジティブな解は導き出せないでいます。
思い起こすと他にも色々とあった理解不可能かつ理不尽なことの理由がつながってくるのですが、それらはここで書くことではないし書くべきでもないのでやめておきます。
単に”そうなんだ”という事実があるだけ、
僕が鈍くて気付いていなかっただけです。
何度も「もしかしたら?」と頭をかすめても、自分の母親ですからね。
少し様子見してみようと思っているうちに夏が終わり、東北の秋は足早に過ぎ去り、冬も終盤の2月になってしまいました。
30年も離れている間、僕も多くの方々と触れ合う中で普通の家庭や親子関係というものの理想形ができあがり、そういった暖かい関係への幻想(思い違い)を抱いてしまったのかもしれません。
いい年して大甘ちゃんですわ。
けど巷には破滅的な親子関係ってのもあって、それはまた決して珍しいものでもないんですよね。
世の中には色々な人がいますし、人々が織りなす関係は様々ですから。
まさか自分がその渦中にいるとは夢にも思っていませんでしたが・・・
気付くのが遅くて、母親には悪かったなと思います。
そしてこれまで何度も相談に乗ってくれた叔母と叔父に感謝しています。
いつも前向きに考えるように導いていただきました。
ありがとうございました。
涌谷町は良いところです

除雪してくれないのにはまいりましたし、ゴミ集積所の遠さにも正直言って辟易としています。
ですがそんなことはどうでも良くなるほど住民の皆様は良い方ばかりです。
ヤマトで宅配していると、どんどん顔見知りが増えてくるのですが
「忙しいですか?」
「毎日お疲れ様!」
「がんばって!」
いつも優しく暖かい言葉をかけていただき、それがまた仕事への励みになってもいました。
町に入り込む仕事を続けるうちにどんどん涌谷町が好きになっていきました。
多くの施設のみなさま、企業のみなさま、
すみません。
本当は町に根付いて仕事を続けたかったのですが・・・
ヤマトの件はまた別記事でまとめますね。
次へ!
てなわけで涌谷町の実家での生活は、予想とは程遠く厳しい毎日となっていました。
そこへきて大寒波と大雪!

そしてジョグのエンジンブロー。

如何ともし難い状況に押し込められて発狂しそうになりながら雪道を徒歩で自分の食料を買い出しに歩く毎日・・・

けれどどうせ何も出来ないなら良い機会だと考え直し、幽閉期間中にいろいろと考えてみました。
今の生活をこの先も続けていくことへの絶望感。
そして続けていくとするなら全く見えなくなる明日、未来。
自分が自分で居続けられなくなっていく破滅感。
東京での厳しい生活から一旦ベースキャンプとしての実家へ戻り鋭気を養い
再びバトルフィールドへアタック!
とかカッコ良いことを言っていました。
帰ってきてすぐに違和感を覚える扱いを受けたり、今思うとその後も幾度となく気付くチャンスはあったのですが、
それでも実家から通える仕事に就くことに固執していたのは
単に自分の選択が失敗だったということを認めたくなかっただけ
なのだと思います。
人間関係を相場で例えて良いものかどうか心情的に?ですが、敢えて例えてみれば
損切り=ロスカットできずにズルズル保有し続ける。結果どんどん傷口(損失)を拡大してしまい、取り返しのつかない状況を招いてしまう
ことと一緒です。
間違いは間違いとして速攻でロスカットし、再び自分のルールで相場を張り直す、生き馬の目を抜くかのような相場の舞台ではどのような局面であっても忘れてはならない考え。
これが出来る人だけが生き残っていける。
そうだと思います。
ただこと人間関係では信頼とか優しさとか、そういったものも絡んでくるのでやはり例えとして適当ではないのかな。
だとしても!
生き残っていく、それが人生の答なのかもな、
僕は生き残っていかなければならない。
まだまだ書ききれていませんけれど、
重たくなりましたので
この話題これにてお仕舞にさせて頂きます。
いつも元気で!
いつも笑顔で!
いつも自信満々で!
いつも全力で!
そんな当たり前の工藤信一を失わないように!
明日は今日より輝いている!
絶対に・・・
今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました。
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【脱東京】宮城に移住します!
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